幸福とは?しあわせって何?

幸福な人生ってなんだろう

最終更新日:2017年8月16日

はじめに

幸福」「幸せ」とは、人生の指針や満足度を示すものとしてよく言及されます。

「幸せな結婚」
「女の幸せは子を産み育てること」
「男の幸せは社会的に成功し名と財をなすこと」
「幸福の源は信仰である」

こういったことを言う時に出て来る「幸せ」って一体なんでしょうか?
「幸福」ってなんなんでしょう。

私は無神論者なので、宗教やなにかしらの信仰で幸福になることはありません。
生涯未婚を決めているので、結婚による幸せもありません。

フリーで仕事をしているので、組織に属する安心感のような幸福もありません。
私の場合は逆に、組織に属して仕事をするのは不幸を感じることにもなりえます。
すべて自由であると同時にすべてが自分の責任です。

では、私は不幸で惨めな一生を過ごすのでしょうか。

価値観が多様化した現代社会において、「これが幸福である」「幸福とは○○である」と言い切ることはできません。

脳科学的に、幸福感を感じることに脳のどの部位が関わっているのかは判明しています。
その部位を鍛えたり、幸福感を感じやすくする心理学等も話題になっています。
ですが、それは答えではありません。

幸福というのは、法や政治の世界でも重要な要素です。
何が幸福であるのかがわからなければ、どのような政策をとるべきなのかわかりません。

哲学的にも、定説はありませんが、大きく3つの説があります。
学術的にではありません。誤解を恐れずエッセイ的に簡単にご紹介します。

快楽主義説

テストで50点をとった落ちこぼれは、充分満足するかもしれません。
テストで90点をとった優等生は、不幸のどん底にいる気分かもしれません。

人間は快楽を感じます。
「快」から「不快」を引いて、プラスであれば幸せ。
プラスが多ければ多いほど幸せ。

ベンサムが理論的に提唱した古典的功利主義の考え方です。

たしかに、体のどこかが痛いとか、二日酔いで気分が悪いとか、ムシムシしていて不快だとか、嫌な上司が隣にいるとかといった「不快」。
おいしいお菓子を食べているとか、好きなアーティストのライブに来ているとか、好きな人と一緒にいるといった「」。

とてもわかりやすい基準です。

ですが、当時から
「満足した豚は痩せたソクラテスよりも幸福か?」
「騙されて間違った信念から喜びを感じている人は本当に幸福か?」
といった批判がありました(これも価値観の押しつけですが)。

健康で働く能力があるのに生活保護をもらい求職活動もせずダラダラとネット三昧で過ごす人と、
能力を活かし仕事で活躍し毎日おそくまで働いている人。

どちらもその生活が好きで好きなことをやっているとしたら、どちらが幸せでしょうか?

自分が偉大な発明をしたという勘違いを信じて死んだ実はなにも発明していなかった人と、
生前はまったく評価されずに、死後に偉大な人であったと評価されたゴッホのような人、
どちらが幸せな人生だったのでしょうか。
(ここにも、評価されることが幸せであるという価値判断が含まれています)


幸福を、個人自身だけのものとみるのか、社会的な要素もあるとみるのかで、判断も変わってきます。

欲求実現説

テストで50点をとった落ちこぼれは、いい点(自分なりに)を取りたいという願望が満たされた(と自分で感じた)ので幸福です
テストで90点をとった優等生は、いい点(100点満点)を取りたいという願望が満たされなかったので不幸です。

幸せとは欲求を実現することである、とする説です。
自己実現、人生目標の達成。
好きな人と結婚し、就きたい職業につき、お金持ちになり、老後は孫に囲まれて幸せに過ごす。
日々わき起こる数々の欲求が満たされるのであれば、確かに幸せかもしれません。

ですが、欲求を実現してみたら、なぜか何も感じなかった。満足感もなく、むしろ空虚な気分になった。
などということは、珍しくありません。

欲求自体も、限界効用逓減の法則で知られるように、実現しても満足度は下がっていきます。
毎日最高級の料理を食べている人と、生まれて初めてその料理を食べた人、その1食の「幸せ」は、どちらが強いでしょうか。

あるいは逆に、欲求すらしていなかったのに幸福になったということもあります。
結婚しているのに、思ってもみなかった人に告白されたら、欲求実現でしょうか。幸せなのでしょうか。

仏教では、「欲」をすべて否定します。
「愛」ですら「欲」であり否定します。
苦は欲が原因であり、欲がまったくない状態こそ幸福だという考えもできるでしょう。

選考功利主義がとる立場です。

客観的リスト説

テストで80点以上を取ることは幸福なことである」というリストがあれば、

50点の落ちこぼれは不幸で、90点の優等生は幸福です。
本人がどう思っていたとしても。

幸福は客観的にリスト化され、それらのリストが充実しているほど幸福であるという説です。
価値観の押しつけの最たるもの。

「高い収入」
「友達との交流」
「女の幸せ」
「宗教への信仰」

こういったリストをつくり、それを実現するためにどうするのかということを、政策判断したりります。
収入がいいことは、本当に幸福なのでしょうか。
友達がいない人は、皆不幸なのでしょうか。

逆に、価値観の押しつけは本当にいけないことなのでしょうか。
人が苦しんでいるところを見て幸福を感じるようなサイコパスは許されないとする価値観は、押しつけてはいけないのでしょうか。
鬱病で自死願望がある人の自殺を止めることは、いけないことなのでしょうか。

まとめ

「幸福」を考えるということは「不幸」を考えることでもあります。
「消極的功利主義」では、幸福が最大化される状態が望ましいのではなく、「不幸」が最小化される状態が望ましいと考えます。


結論として、「幸福」「不幸」を定義することは出来ないでしょう。
ひとりひとり異なります。

そうは言っても、政策判断や立法判断においては、なんらかの基準を設ける必要があり、法政策学や法哲学の分野で議論されています。

ですが個人については、「蓼食う虫も好き好き」です。

脳をfMRIで解析したとしても、脳の幸福を感じる部位が何にどのくらい反応するのかは、人それぞれです。
人は、他人と自分を比較する生き物です。
人よりいい収入を得て、いい配偶者を結婚し、いい子供に恵まれて、いい暮らしをする。
他人と比較するうえではこれは有利です。
ですが、上には上がいます。
タワーマンショに引っ越したら、上階の人への劣等感で不幸になったなんて話も聞きます。
ありのままで」という言葉が流行しましたが、ありのままで幸福になれる人となれない人がいるでしょう。

結局、なにが「幸せ」であるのかは、人から押しつけられるものではなく、自分でどう感じるか次第でしかないのではないでしょうか。
そうであれば、ポジティブシンキングとかエセ心理学的なトレーニングも無駄ではないかもしれません。

欲がないような仏教の悟りの境地も、それはそれで幸せだと思います。

日本国憲法13条をはじめ、世界中の多くの国の憲法で採用されている「幸福追求の権利」は、「幸福の権利」ではありません。
幸福になる権利」ではなく、あくまでも幸福を「追求する」権利なのです。

幸福を追求し、その結果幸福になれるのかどうか、何を幸福と感じるのかどうかは、その人次第。
憲法でも定めることができないのかもしれません。

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