なぜ、人を殺してはいけないのか

なぜ人を殺してはいけないのか。正義論ー政治ー宗教。

最終更新日:2017年8月16日

殺人というのは、いろいろな意味で多くの人をひきつけるテーマです。
「なぜ、人を殺してはいけないのか」
本気で考えた人は、どれくらいいるでしょう。
いろいろな視点や立場で、いろいろな答えがあると思います。
100人いれば、100通りの答えがあるかもしれません。
政治学(政治哲学)的にみれば、ホッブズの「各人の各人に対する闘争」で、ある程度は説明できます。
人を殺してもいい世界を想像してみればわかります。
自分も、自分の大事な人も、いつ殺されるかわからない。
『リヴァイアサン』でホッブズがいう自然状態はフィクションですが、「人間の生活は孤独で貧しく、つらく残忍で短い」というのは、あながち間違いではないでしょう。
このような理由は、結局は自分が殺されたくないから、社会の発展にとって障害があるから、という、ある意味利己的な理由であるともいえます。
イスラムやインドの文化の一部では現在でも、名誉の殺人はむしろ社会的に望ましい。
アメリカ中西部にも、同じような名誉の文化があります。
では、世界に自分ともう1人、2人しかいなかったら?
しかもその人には、自分を害するだけの能力も無く、自分にとってなんの貢献も無かったとしたら?
それでも殺してはいけないのでしょうか。
宗教の答えはどうでしょう。
キリスト教であれば、殺すなというでしょう。
しかし、殺してはならないという理由が、死後自分が天国に行くためだとしたら、それは正しいのでしょうか。
旧約聖書の神は、多くの人を殺しています。英雄たちも、多くの人を殺すことで英雄となりました。
新約聖書のキリスト教が興ってからも、神の名の下に多くの殺人がおこなわれました。
仏教では、殺生が禁じられています。
すべての生命は「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天」の六道を輪廻しており、殺生は最下層である地獄に落ちるからとか、相手は自分のご先祖様かもしれないから、とかよく言われます。
ではなぜ殺生が罪なのか、不勉強にして、仏教の殺生に対する根源的な考え方はわかりません。
戦争は?
死刑は?
正当防衛は?
目の前で人が死んでいくのを黙ってみているのは、罪なのでしょうか。
罪なのだとしたら、それが目の前ではなかったら?
多くの途上国で、今この瞬間も多くの人が亡くなっています。
自分のほんの少しのお小遣いを送れば、その中の誰かを確実に助けることができます。
世界中の人が、不作為による殺人をおこなっていることになるのでしょうか。

尊厳死や安楽死は?
胎児は?
ヒト胚は?
動物は?
植物は?
もし、どのような理由であれ、人間を殺してはいけないのであれば、それはどういう理由なのでしょう。
人権があるから?
では、人権とはなんでしょう。
なぜ、人間にだけ、そんな絶対的な権利があるのでしょう。
私は、菜食主義者です。
といっても、現代日本において社会生活をおこなううえで、完璧な菜食主義(ビーガン)を貫くことは非常に難しい。
ヘタレな私は、付き合いの必要がある場合には、魚を食べます。
卵も食べます。乳製品も食べます。
殺人についての私の考えは、功利主義者ピーター・シンガーの考えに近いです。
興味がある方は『実践の倫理』を読んでみてください。
今後も、気が向いたら、こんな風に答えがないテーマについて思ったことを、ダラダラと書くかも。

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